5月 23 2011

奥州藤原氏のその後

今回は、清衡のあとの奥州藤原氏についてのお話をしていきます(^^)

清衡の子の基衡(もとひら)は、無位無官でしたが、それは藤原氏の独立性のあらわれでもありました(^^)

国司の調査を拒否して合戦になったほどでした(^^)基衡は30年以上奥州を支配しました(^^)

文化では『毛越寺(もうつうじ)』を建立しました。50あまりの堂や塔をそなえた壮大な伽藍(がらん)を成していましたが焼失し、今は浄土式庭園である『大泉池(おおいずみがいけ)』だけが残っています(^^)

基衡の子の秀衡(ひでひら)は、鎮守府将軍や国司となりました。それは中央の支配が及んできたことを意味しています(^^)

源平の争乱のなか、平氏からの誘いには動きませんでした。平氏滅亡後には頼朝に追われた源義経をかくまいました(^^)

秀衡は文化としては『無量光院(むりょうこういん)』を建立しました。平等院を模した阿弥陀堂でしたが、今は跡が残るだけです(^^)

奥州藤原氏は、1187年の秀衡の死後に、泰衡(やすひら)が頼朝の圧迫に対抗できずに、かくまっていた義経を殺してしまいます。1189年、頼朝の奥州征伐で逃走中に、みずからの配下のの者に殺されてしまいました(^^)

ここまで中尊寺を起点に、奥州藤原氏のお話をしてきました(^^)頼朝は平泉の富と文化に驚いたとされています(^^)

平泉を中心とする政治や文化には、京都や北方の影響が強かったとのことです。また、海路や陸路を通じて、広範な文化交流があったことがわかってきています(^^)

今回お話をしてきて、ますます行きたくなってきました(^^)東北のよさ、その歴史のおもしろさを少しでもお伝えできたなら、光栄です(^^)

ではまた(^^) by 種


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