7月
05
2011
ごふさたしておりました(^^)
先日、長野県松本市にある重要文化財、『旧開智学校』にいってきました(^^)
自分が受験生だった当時は、あまり見かけなかったのですが、最近の日本史の教科書や資料集で見るようになり、気になっていました(^^)
1876年に建てられた校舎は、和風と洋風のいり混ざった『擬洋風建築』です(^^)
建築文化史として貴重であることから、1961年に重要文化財に指定されました(^^)
中を見学でき、明治の建物、学校の雰囲気を感じることができる場所です(^^)
国宝の松本城の近くです(^^)ゆっくり歩いてまわるのもいいですよ(^^)
戦国と明治を感じることができる松本市が、好きになりました(^^)
是非一度、訪れてみてくださいね(^^)
by タネ
6月
13
2011
先日、京都の『廬山寺(ろざんじ)』にいってきました(^^)
あまりなじみがないかもしれませんが、紫式部が源氏物語を執筆した場所なのです(^^)
京都御所の東側の、ほんとすぐそばにひっそりとあるこの寺は、紫式部の曾祖父の藤原兼輔以来の邸宅でした(^^)
その邸宅跡に、1573年に廬山寺が移転してきたのです(^^)
仙洞御所(上皇の御所のことをいいます)の一部が移築さら、宮家の御下賜により改装された廬山寺は、小さいですが品のある、静かで落ち着いた寺です(^^)
『源氏庭』と呼ばれる庭も、白砂と苔のコントラストがきれいですよ(^^)
京都御所に行かれた際は、是非寄ってみてくださいね(^^)
See you next time♪
by 種
5月
30
2011
先日、兵庫県加古川市にある『鶴林寺(かくりんじ)』にいってきました(^^)
聖徳太子開基の寺といわれ、『西の法隆寺』とも、地名から『刀田の太子さん』とも呼ばれています(^^)
国宝の太子堂は、中はみることができませんが、きれいな作りのお堂で、900年前に造られたという時間を感じることができます(^^)
鶴林寺で是非観ていただきたいのが『聖観音像』です(^^)
少し体をひねるように立つ姿がとてもきれいな像です(^^)
白鳳時代(600年代後半)の作品とされ、正面からだけでなく、四方からみることができます(^^)
『あいたたの観音さま』ともいわれています。その由来の伝説は、ぜひ訪れて確認してみてくださいね(^^)
静かで落ち着いた寺で、とてもよかったです(^^)
みなさんも訪れてみてくださいね(^^)
See you next time!
by 種
5月
25
2011
昨日、またひとつ勉強しちゃいました(^^)
昨日、『1950年の金閣放火』が話題になり、金閣のことを調べていました(^^)
金閣はご存じのように、3層(3階建)になっています。初層と中層は伝統的な寝殿造風になっています。上層は禅宗仏殿風になっています(^^)
これが知らなかったことなのですが、この各層には呼び名があるのです(^^)
初層は『法水院(ほうすいいん)』、
中層は『潮音洞(ちょうおんどう)』、
上層は『究竟頂(くきょうちょう)』、
といわれます(^^)
ちなみに、消失前の金閣は創建以来残っていたものでした(^^)
また、庭園は鎌倉時代に造られたものを室町時代に改造されたものです(^^)平安時代の趣を残す、とされています(^^)
もともと西園寺家の邸宅を足利義満が譲り受けて、別荘を建てたことが、鹿苑寺と金閣のはじまりです(^^)
新たなことを知って、また訪れてみたいです(^^)
みなさんは最近金閣に行かれましたか?(^^)
See you next time!(^^)
by 種
5月
23
2011
今回は、清衡のあとの奥州藤原氏についてのお話をしていきます(^^)
清衡の子の基衡(もとひら)は、無位無官でしたが、それは藤原氏の独立性のあらわれでもありました(^^)
国司の調査を拒否して合戦になったほどでした(^^)基衡は30年以上奥州を支配しました(^^)
文化では『毛越寺(もうつうじ)』を建立しました。50あまりの堂や塔をそなえた壮大な伽藍(がらん)を成していましたが焼失し、今は浄土式庭園である『大泉池(おおいずみがいけ)』だけが残っています(^^)
基衡の子の秀衡(ひでひら)は、鎮守府将軍や国司となりました。それは中央の支配が及んできたことを意味しています(^^)
源平の争乱のなか、平氏からの誘いには動きませんでした。平氏滅亡後には頼朝に追われた源義経をかくまいました(^^)
秀衡は文化としては『無量光院(むりょうこういん)』を建立しました。平等院を模した阿弥陀堂でしたが、今は跡が残るだけです(^^)
奥州藤原氏は、1187年の秀衡の死後に、泰衡(やすひら)が頼朝の圧迫に対抗できずに、かくまっていた義経を殺してしまいます。1189年、頼朝の奥州征伐で逃走中に、みずからの配下のの者に殺されてしまいました(^^)
ここまで中尊寺を起点に、奥州藤原氏のお話をしてきました(^^)頼朝は平泉の富と文化に驚いたとされています(^^)
平泉を中心とする政治や文化には、京都や北方の影響が強かったとのことです。また、海路や陸路を通じて、広範な文化交流があったことがわかってきています(^^)
今回お話をしてきて、ますます行きたくなってきました(^^)東北のよさ、その歴史のおもしろさを少しでもお伝えできたなら、光栄です(^^)
ではまた(^^) by 種
5月
16
2011
今回は、奥州藤原氏と深いつながりをもつ『中尊寺』についてのお話をしていきます(^^)
中尊寺は天台宗の寺です(^^)
天台宗の祖最澄の弟子、『円仁(えんにん)』が開き、859年に清和天皇から寺号外を与えられた、との伝えがありますが、本当のところはわかっていません(^^)
1105年から藤原清衡が主要部を建立し、子の基衡、孫に孫の秀衡が造営を重ねました(^^)
1337年に金色堂と経蔵を残して焼けてしまいます(^^)
金色堂は、全体が『覆堂(さやどう)』で保護されていました。1962年からの復元解体修理で、覆堂は鉄筋コンクリートになりました(^^)
堂内の須弥壇(しゅみだん)には奥州藤原氏三代のミイラが安置されています。中央壇は清衡で、向かって左の南脇壇は基衡、右の北脇壇には秀衡と推定されています(^^)
是非一度訪れてみたいです(^^)
次回は、清衡のあとの奥州藤原氏についてのお話を(^^)
by 種
5月
13
2011
前回は藤原清衡が、母が再婚した清原氏に養われた、というところまでお話をしましたぬ(^^)
その後、1083年に清原氏に内紛がおきて、『後三年合戦(ごさんねんかっせん)』が始まりました(^^)
この合戦自体は、『源義家(みなもとのよしいえ)』の活躍や美談が語られることが多いのですが、清衡は、その源義家と結び、清原家衡らを滅ぼします(^^)
清衡は後三年合戦後に、姓を『藤原』に戻し、『藤原清衡』と名乗りました(^^)
清衡は、陸奥・出羽の押領使(おうりょうし)という地位に任命され、勢力を拡大しました(^^)
奥州産の金の経済力で、当時の中央の権力者である白河上皇や摂関家に取り入りました(^^)
そして清衡は1105年~25年にかけて中尊寺の主要部を建立したのです(^^)
次回はその中尊寺についてのお話をしていきます(^^)
by 種
5月
11
2011
今回から、奥州藤原氏についてのお話をしていきます(^^)
奥州藤原氏の祖、『藤原清衡(ふじわらのきよひら)』は、1056年に生まれました(^^)
父は『藤原経清(ふじわらのつねきよ)』です。もとは『亘理(わたり)』姓を名のり、いわゆる藤原氏とは別の系統です(^^)
経清は、代々陸奥の『俘囚の長(律令国家に服属した蝦夷)』であり陸奥六郡を支配した『安倍頼時(あべのよりとき)』の娘婿でした(^^)
頼時が国司に反抗したことから起きた『前九年合戦(ぜんくねんのかっせん)』で、経清は頼時に味方して敗死してしまいます(^^)
清衡の母は、前九年合戦で功績をあげ勢力を拡大した清原氏の『清原武貞(きよはらのたけさだ)』と再婚します(^^)
清衡は、清原氏に養われたことから、『清原清衡』と名のることになりました(^^)
次回に続きます(^^)
by 種
5月
09
2011
中尊寺が世界遺産に登録されることになりそうですね(^^)
東北地方にまたひとつ、いいニュースができました(^^)
中尊寺を建立したのは『奥州藤原氏』の祖である『藤原清衡(ふじわらのきよひら)』です(^^)
昨年、藤原氏をテーマにブログを書いてきたつながりで、次回から中尊寺と奥州藤原氏についてのお話をしていきます(^^)
今回のニュースが、東北の復興に役立つと、日本史好きとしてうれしいです(^^)
ではまた次回(^^)
by 種
5月
02
2011
今回は、四天王と方角についてのお話をしていきます(^^)
仏教の、想像上の霊山である『須弥山(しゅみせん)』の中腹に住み、四方を守るとされているのが四天王です(^^)
頂上に住む『帝釈天(たいしゃくてん)』の部将です(^^)
東を『持国天(じこくてん)』、
南を『増長天(ぞうちょうてん)』、
西を『広目天(こうもくてん)』、
北を『多聞天(たもんてん)』が守っています(^^)
多聞天は『毘沙門天(びしゃもんてん)』ともいわれます(^^)
東大寺戒壇院、法隆寺金堂、唐招提寺金堂などにあるのが有名です(^^)
寺院を旅されたら、方角を気にしながら仏像などをみてみるのも楽しいですよ(^^)
みなさんはGWにどこかいかれましたか?(^^)
この時期も特別拝観、公開がたくさんありますよ(^^)
訪れてみてはいかがですか?(^^)
ではまた次回(^^)
by 種村